あの道を走ることが

光のはしご

 どうしても辛くて行かねばならないと、気を張っている行きは何とかなっても、帰りはどうなるのだろうかと不安でした。思いがけず高校の先輩と後輩が来ていて、彼女達を駅まで送っていく事になり何とかあの道をまた走って戻る事が出来ました。ありがたかったです。
 GSの研修は内容的にはいかにして社会にスカウトの存在をアピールし活動の幅を広げていくか、団を組織してゆくための研修でした。例えいい教育をしていても余りにアピールしなさ過ぎるので存在が見えないのでしょうね。日本の中では特別な存在でも欧米では「スカウトみたい」「スカウトじゃああるまいし」「スカウトのように」などなど物の例えに使われる位一般化した存在です。ミステリーでも「いかにも犯人らしくない」人物が犯人だったりすると「ガールガイドの見本みたいな彼女が?」等といかにも「ありえない」事の表現に使われたりします。日本ではまだまだ一般化してはいません。結局人数が少ないから目立たないのかな。あの制服は猛めちゃ目立ちますけどね。社会に役立つ人になる。とか、自分の幸せだけを願うのでははなく隣人の幸せも願う。とか、使命を持って自分を磨くなんて事が日常化されていない社会なのかな。昔は日本の家庭の中にだってこんな言葉ごくありふれたものだったはずなのに。何時からゆがんだ利己的な個人主義ばかりが、前面に出てきたのだろうか。自分の利益ばかりを優先する生き方は、何時か自己破綻をしてしまう。
 GS研修の二日目お誕生日の方がいた。75歳の現役のリーダー。彼女は60歳のとき孫娘のために自分も一緒にスカウトになった。そして自分の孫だけではない、同じような少女達を孫と一緒に教育してきた。素朴でつつましい彼女の姿を見てコレが私たちの欲しい人間教育の姿だなと思った。静かに少女達の傍らに立ち、暖かく見守り自分の持っているものを与えてゆく。そして自らも研鑽を積み続けている。立ち止まらずしかしあせって走りもしない。ひたむきな思いと地に足の着いた自信に支えられた謙虚な歩みがある。青森の方だった。ナマリのあるお礼の言葉を聞いて「何度もやめ時を考えながら今日を迎えました。孫の守ではなく、リーダーたちとほかの子供も一緒に育てる。遊ぶ。いいものです」沢山のリーダーたちが勇気付けられた。
 年老いたものにしかもてない暖かさや、確かさがあることを彼女は教えてくれた。今回の研修で私が得たものはコレだ。私も「素敵なおばば」になるぞ。