秋刀魚

蛙ちゃんから夜電話があった。「秋刀魚をいただいたのでお刺身にしたら、美味しかった。秋刀魚はすばらしいね」という話。確かにきときとの秋刀魚で無ければ刺身には出来ないからよほど生きのいいものだったのだろう。
 「尻尾を持って立たせて立つのは刺身に出来る」というけれど、ここいらでは本当に生きのいい魚が手に入る。摩り下ろししょうがでいただくとしみじみと「おいしいいい」子供には油がきつすぎるので熱湯をかけて油抜きすると良いが折角の生のとろける口ざわりがなくなるから、量で加減するか、マア下痢の一回くらい、よいではないかと勢いで食べてしまう。いわしの刺身も同じくらい美味しい。いわゆる青魚は下魚であるが、あの力強い味わいは上品な魚には無い「食べた」という満足感がある。子供達が魚がすきなのは、私も親分も根っからの食いしん坊で「ああ美味しいねえ」とむしゃむしゃ食べるのを子供達が見て育ったからだろう。ソバで本当に美味しそうに食べられたらつられて食べてみたくなるのが人情。我が家の子供達は殆どなんでも食べる事が出来る。よそ様から「コレ召し上がりますか」と尋ねられると私は「はい。我が家はシロアリ並みに何でもいただきます」と答える。おかげさまで世間様が廃棄するようなものの美味しさを知る事が出来た。例えばレタスが生長すると長い茎が出来る。あの茎の皮をむいて食べるとぽきぽきして美味しい事この上ない。兎のようだが葉っぱよりも美味しいと私は思う。
 これはあるお坊様からお聞きした事。彼は精進料理を創りながら「命をいただくのですから例え皮でも根でも食べつくすのが礼儀です」とおっしゃった。幸い我が家で食べているものは自家製か共同購入なので殆ど無農薬栽培である。皮も根も食べられる限りは食べつくす。不思議なもので皮には皮独特の美味しさがある。それを工夫するのもまた楽しみになった。師匠が修行中先輩の捨てた食材の廃棄分でもう一品作って、あらためて自分の育った家の調理と世間様の調理の違いに気がついたと言った。ブロッコリーの茎も一皮むいてさっと湯がいて胡麻和えにすると美味しい。私はあのお坊様に出合えた事を嬉しいと思う。とことんいただくことが感謝の表れといった人は、私よりもはるかにお若い方だった。彼は出家する前はPCエンジニアだった。考え方がシンプルで素敵な人だ。