気持ちよく暮らしたい

少しでもいいから、気持ちを柔らかくフンワリと暮らしたい。このところ、脅迫されているみたいにつんのめってあれこれやってきた。何だか肩で息をしているような気分になった。ゆとりがないなと思う。外にでるときもあたふたと用事だけを足して寄り道も道草も食わない。無駄と思える時間がない。こんなことしていたら磨り減ってしまうよと、思う。早く種まきの季節にならんかな。今のところせっせと球根を植えているけれど、同じ季節に咲くものばかり植えても仕方がない。畑も一年レンタルで、私自身が転勤の可能性を抱えているから来年の春を越えて先の事は予定が立てられない。幼い頃から、2月は厭な月だった。春が来ると皆と別れてどこか知らない土地に行くと思っていたから。大人になって、自分が親と同じ生活をしているのが何だか変だ。私は一つの土地に定着して生きたことがない。どうやって自分の根を張っていったらいいのかが分からない。転勤という生き方は、一つの文化形態なのだろう。かつて文化人類学の授業でユダヤ人が一瞬にして荷物をまとめ移動し、又今までと同じ居住環境を作り出す伝統的なテクニックと、現代の転勤族の決定的な違いを比較してみた事があった。ユダヤ人は自分達の生活様式を、無形にしろ有形にしろかたくなに守る事で自分を見失わないが、現代の転勤族はその度に自己のよって立つところを見失ってしまうらしい。かたくなに守るべきものが皆無なのだ。そんな育ち方をしていくと、ネッコのない人間観を持った何処にいっても異邦人でしかない人間が出来てしまうのではないか。それが怖かったから、私は子供達にスカウト活動や教会生活を守らせてきたような気がする。例え周りの世界は異なっても変わらないものを持っていてその事で人間関係を保ってゆけるならばどんなにかいいだろうと思った。子供の世界はその殆どが学校だ。転校がどれほど不安なものか、私自身が大学を変わってみて体験した。子供時代の不安を思い出して、いい年をして一時不登校になった。今は子供達の方が私よりもはるかにタフだ。