連日の忙しさが

中休みの一日。今日は復活祭の次の日なのに、イマイチ気持ちが晴れ晴れとしない。この一年の重さがMAXになって、のしかかっているのだとわかっている。楽になっていいのだよと、クライエントには言うが,逆にその事が、去って行ったものとの距離感を作ってしまうので遺族は自分だけ心を解放する事が出来ない。法事はそのためにある。一周忌、3回忌と立て続けに人寄せをして精神的にも経済的にも緊張して、悲嘆に浸りきって心が日常に戻れなくなる事をふせぐ。仏教行事の中に込められたリカバリープログラムは実に優れていると思った。単に慣わしと言うだけで片付けられない知恵がある。キリスト教では死は復活に開かれた扉だが「仏教」特に禅宗は死は無への扉なので、そこには何も存在しない。だからこそ生きているものへのアフターケアを大切にするのではないだろうか。などと、先日禅宗のお坊様と話あった。他宗教の方と、胸を割っての心の通い合いは大切な事だと感じた。人間という多面的な存在を一つの切り口だけで見る事は危険であると思っているから、このような機会を与えられるとつい本気で話し込んでしまう。彼もまた自分の宗教的立場だけで物事を見るのは危険だと思っているので、お互いに必要を満たしあえてよかった。特に職業として宗教を生きている場合は周りが同じ価値観を持っているから、自分の足元の大地が見えなくなる事がある。
 忙しすぎる事も同じ事。今日はたまった手紙を何本か書いて、心の調整をしようと思う。つんのめっていきていると、見えるはずのものが見えていない事に気付かなくなるから。