まだ11月だというのに

いかにも冬間近

 ハロウインが終わったと思ったらもうサンタクロースが立っている。この国は忙しい。家具売り場の片隅にインテリアの小物コーナーがあって綺麗なデコレーションやシーズングッズが置かれている。ろうそくも種類が多くて驚く。生きることにかかわりの無いもの、あっても無くても生活には関わらないもの、ほんの一日か二日しか必要の無いものにこんなに高いお金を払うのだろうかとしばしたたずむ。まして特定の宗教行事なのにな・・・季節行事のクリスマスはキラキラとまぶしい。
 今年我が家ではどんな形でクリスマスを迎えるのだろうか。クリスマスは原点に返る季節。愛情の原点。命の原点。生きようとする意識の原点。かかわりの中で、関係性の生き物である人間はどこかに存在の原点を持たなければ、流れ去っていく時の速さに自らの足場を失う。あえてそういう生き方を選択する人も居るが、それはかなり過酷な人生を覚悟しなければならないと思う。

ヘルペス?

背中の脊柱側に沿って痛む。ヘルペスかなあ・・・・いやだなあ・・・もんよりと抱える不安。かつてヘルペスをやったが体力が落ちたり疲れがたまってくるとひっそりと再発する。このウイルスは居なくなることが無い。潜伏して発症のチャンスを狙う。黙らせるためには日常の健康管理が一番。体力があって、免疫がきちんと働いていれば沈黙するから。過労のバロメーターになっている。

生きていていいの?

 何故私に問いかけるのだろうか。生きていいかどうかなんて冷静に考えれば答えの選択の余地の無い問いを、繰り返し発する人。あなたの求めているのは「生きていていい」と保障してくれる誰か。私はあなたの命の保証人にはなれない。いや共にこの同じ時間を共有している人間同士として、何の脈絡も、責任も無く「いいよ」と答え続けるべきなのかもしれない。
 しかし、その問いはそのまま私自身に向かっての問いかけでもあるのだ。「お前は生きている資格があるのか」「生きている価値があるのか」「果たすべき責任を果たしているのか」答えられない。だから今日一日を精一杯の思いで生きている。先のことは私の手の中に入りきれないから考えない。勿論世の中での行動予定は今年いっぱいもう書き込まれているが、それとは別の命の手帳があってそこに、本質的な意味で自分の生きた印が書き込まれる。書き手は私。そして読み手も自分のみ。自分が自分にとって一番の理解者でなければとても生きていられない。その大切な自分自身がやりきれないときがある。そんなときは静かに静かに扉を閉めて沈黙する。心が整うまで。その時間と場所を保障するのもまた自分自身。どんな悲惨な体験の中でも狂わずに生きていられるとすればこのシステムのお陰。言葉を泳ぐことをやめ言葉に漂う。穏やかに、ひっそりと。

オバマ氏

余りの票差にびっくり。黒人代表といっても彼は奴隷の子孫ではないといった解説者が居た。父親がケニヤからの留学生で大学で白人女性と結婚したからだという。そういうルーツをアメリカに持たない人が大統領のなる国の凄さといっていたが、この国の人々の意識の中に奴隷の子孫という言葉がまだ生きているのだなあと思う。オバマ氏自身106歳の女性が投票したことを思ったと演説の中で言っている。かつてバスにも乗れず、差別され、投票どころか文字すらかけなかったその時代に生まれた黒人女性が、黒人の大統領候補に投票することの何と凄い変化だろうかと。日本に居て、身近に自分自身が差別の対象となった体験を持たない私にはその言葉の意味しているものの重さを正確には共感できない。分かったつもりにさえなれない。分からないのだ。このことの意味を体験的に理解できる人々にとってこの出来事は天地がひっくり返ったくらいの出来事なのだろうな・・・
 彼の演説をじっと聞いていてこの人は言葉を大切にする人だなと思った。言葉に力をもたせることの出来る人。相手の言葉を聴くことも出来る力を持っているであろう人。話すことの出来る人。きくことを恐れない人。日本にそんな政治家が居るのだろうかと思った。