あちこちで

五橋公園

自然災害のニュースが流れている。火山が噴火し,地震が続く。大雨が降って洪水になったり、穏やかとは言えない毎日が続く。この国の成り立ちは決して盤石ではないのだと改めて思う。昔、日本沈没という言葉が小松左京のSFにあったけれど、決してないことではないよなあと思い怖かった。逃げ場のない座して死を待つしかない自分だろうなと思い、まあ仕方がないかと思い、きっと生き残るであろう豊かな人たちがいるであろうことを思い、そうやって生き延びていくことが種の保存のためには必要なのだろうなと思い。確実に私は生き残れないほうに入るだろうなと思っていた。子どもであっても、生き延びるためにはお金が必要なのだということだけはわかっていた。


 大人になって、自然災害と思うことが、実はある種経済格差の表れであることも、うすうすわかってきた。そこに住むことを選択していったプロセスがあって、そこにしか住むことができない事情があって、それは自分で選んだと思っているが、選択肢がそこに向かって備えられていることに気が付かない。かつて震災の時に、なぜあんな危険な地域に住んでいたのか、またそこに住もうとするのかと思いそこに至った経緯に気が付いた。
 格差社会という言葉の本質を見た思いがした。表面を見ていただけでは見えてこないたくさんのことをこんな形で知ることになるのだとも思った。


 子供たちがこれから生きていく日々は、幸いな日々であろうか。お互いに支えあうことさえできない日々であろうか。不安がある。親の世代が果しえなかった社会改革を、若い世代は、なしえるのだろうか。旧世代の作った社会構造は壊れつつあり、暴力による破壊が世界的規模で国家単位で進みつつあるこの時代、自分の子供を守るすべさえもないことに無力感を感じる。
 神はこの民をお救いになられるのか。人のなすこの愚かな技を導かれるのか。私たちは滅びに至る道を歩んでいるのか。再生に至る道の途上にあるのか。私たちの世代は、役割を果たしているのだろうか。まだ死んでなどいられないのか。まだなすべきことがあるのか。この雨を体で感じながら、しみじみと思う。今ならまだ何かこの世に果たすべきことを果たすだけの時間がある。あと一つくらい。