追い出しコンパ

昨夜は姫の大学の追いコンがあった。彼女はもう一年最後の学年が残っている。もう泣いても笑ってもあと一年で、学生はおしまい。社会に出てゆかなければならない。自分が学生の時は就職難でどこでもいいから私を使ってくれるところはないかという程に追い込まれた気分だったけれど、考えてみたら、我が家の子供たちもみな就職氷河期しか知らない。
 どの子も、世の中に出てゆくのはなんて難しいことなのかと、胃に穴が開く思いをして飛び出していった。親としてはしみじみと悲しくなる。子供たちがそれぞれに持って生まれた特性を生かすどころか、なんとか自分が一人生活できるための職探しにあくせくして、自分をすり減らしていくのを見ているしかない。
 もし、私たちが何か経済的な支えになれる親であったら、子供たちはもっと自分を生かせる場所を時間をかけて見つけられるのだろうかとか、いやいやそれぞれの人生なのだから、自分で歯を食いしばって探さなければならないのだ。自分の翼で飛ぶんだ。と思ってみたりする。自分で切り開くことが、できるくらいならばとっくにやっているさとも思う。
 子供を育てていて、一つの所属から次の所属を見つけるときが最も苦しかった。たとえば受験で学校が変わるとき。中学から高校へ、高校から大学へ。そして大学から就職へと進む時、微妙にその子のやりたかったことがそぎ落とされて、社会から求められる姿に変えてゆかなければならない。あきらめて、もだえて、飲み込んで、それでもあきらめきれなくてを繰り返していく。
 そうやって人は成長するのだと思うけれど、あんなに個性豊かだった子供たちが、一見すると区別のつかない分別を持った大人になっていく。心の中に押し込めていつか花開くはずの夢の種は芽吹くことがあるのだろうか。生きてさえいればいつかどうしても育てたい夢の続きに向き合うことができると、本当に思っていてよいのだろうか。
 このところのすさんだ少年犯罪を思う時、どこまでたどって正せばこのことは起こらなかったのだろうかと思う。