木々の気配が

赤みの増した枝

ほんのりと春の雰囲気になってきている。まだまだ雪は降るし、凍てつく日がこれからもやってくるのに、木々の姿が何となしに穏やかにはんなりと見える。たたずまいが冬から春へと変化してゆくようだ。
 希望はあるのか。と問う人に出会った。この国に生きてゆくものに、希望はあるのか。暮し向きはますます苦しくなっている。物の値段はじりじりと高くなり、ある日、昨日買えたものが、もう自分にとっては手が出ない贅沢な品になってしまう。そのやりきれない寂しさを毎日のようにかみしめている。
 やがて老いは進み体は動かなくなり、人の手にゆだねて日々の暮らしをしなければならなくなる。その時このささやかな蓄えは手元に残っているのだろうか。税金の世話になって保護を受けるひとりになるのだろうか。そのすべての責任が自己責任としてわが身の落ち度なのだろうか。この国に希望はあるのか。

 修道者は清貧・従順・貞潔の三つの誓願を神の前にたてる。しかし今私たちの子供たち若者たちは、生きてゆくためにこの三つの条件をのまされている。収入を抑えられ貧しく、それが故に結婚することもかなわず、非正規雇用でいつ契約を切られて自分の望む生き方や働き場所でないところで食を食まなければならない。望まずとして社会が、若者を含め多くの人間に向かってこの三つの誓願と同じ過酷な生き方を強いているのではないか。このやりきれない閉塞感がテロの最も大きな原動力ではないのだろうか。希望のない国、希望のない世界が自らの命の捨て場所としてテロを生み出しているのではないのか。この世界に希望はあるのだろうか。



捨て場所のないこの命に、
何らかの意味を持たせて散ることができるなら、
それがジハードという名を与えられるなら、
この一生無駄ではなかったというのだろうか。

あまりにも悲しいではないか。
こんな国は嫌だ。
こんな世界は嫌だ。
人は人としてささやかな自分の生涯を全うして、
次の世代に何かを手渡して
命をつないfで生きてゆきたい。
其れさえも夢迷いごとというのならば
何が夢であり、
何が希望であり、
何が生きることの根本なのかを
きちんと示してほしい。

この命を全うに燃やして生きるために