私のほしいもの

時間がほしい。
 何かするためにということもそうだけれど、もっとぼんやりと時間を流れとして生きてみたい思いがある。いつも何時にはどこで何をやるかということばかりに目を向けて、忙しく移動して仕事をこなして、さてこの後はという暮らしは、確かにやりがいはあるし充実感はあるけれど、私自身のために何かケアしただろうか。自分の大切な心はケアされているのだろうか。体は?と思うと一番投げやりに置き去りにされているのは私自身だなと思う。この部分でつじつまを合わせ時間調整をし、一日の終わりにはご飯を食べる気力も、お風呂に入る体力も残ってはいない。ただもうベッドに入って眠りたい。そんな何日かが続くと、その反動で何か普段しないようなことをやりたくなる。ほんの少しのアルコールであったり、気に入ったものを買ってみたり、当てもなく本屋をさまよってみたりする。頭の中ではかなり真剣に次の段取を考えたりしているのだけれど、体はぶらぶらと現実空間を彷徨う。心と体の分離を楽しむ。

きれいなものを楽しみたい。
 思い切って絹の生成りのクレープ地のシャツを三枚買った。絹の肌触りがやさしくて好き。包まれるという感覚が好き。ふわふわしたワンピースも好き。普段は汚れてもよいスキニーパンツに防染ジャンパーを着てスリップオンを履く。何が起きてもダッシュで走ることができるように。髪の毛も普段は引きつめにしているか、しっかりと後ろでまとめてクリップで止めているが、休日は洗い髪に空気をいっぱいに含ませてふわふわにする。化粧もしない。ただ淡い口紅は好きだからつける。体を締め付けない、重さも感じさせない。それは日常がどこにあるのか、自分がどこにいるのかを私自身が必死で失わないように守っているからだと思う。

 自分が失われてゆき、さまざまな自由度も低くなりつつあり、そこに何が最後に残ってゆくのか。もしくは今まで隠されていたものが浮上してくるのか私にもわからない。
 だからたくさん音楽を聴きたいと思い、たくさんの絵を見たいと願う。今この感受性が明日も保障されてはいないということを、たくさんの人生を見てわかってしまったから。今感じ取れる力があるうちに今できることをと思う。

学ぶこと
 もういい加減学ぶことをやめてもいいのではないのかと思うこともある。それでもチャンスがあると手を伸ばしてしまう。ある研修を受けてそのワーカーとして登録されて、社会の中で又自分の役割をもって生きる場所を増やす。その生き方を今後も続けていってよいのだろうか。もうきっぱりと辞めて私をテーマに生きていったほうがよいのだろうか。老いても倒れるまで謙虚に学び続ける人が好きだけれど、そのための根本的な能力と探求心が私にはあるのだろうか。何とか経費は支払うことができるけれど、この迷いは何かと思う。自分の定年は自分でキメなければ駄目よと友人は言った。私より5歳年上の人だけれど、彼女の生き方は颯爽として年齢を感じさせない。いつも人を指標にすることなく、私はどうしたいのかなと考え続けている人だ。安易に相談して迷いを晴らした気持ちになってもそれは感情の部分だけの満足であって、本当に自分の心の奥底で納得できるものではない。迷って迷って思い浮かぶすべての疑問不安のリストを作って決定するか、それとも気分で直観に従うのか。これをチャンスととらえるのかは、私自身の孤独な作業だとわかっている。