このところ、自尊意識に関することを

午後の光が透き通ってくる

 考えなければならない立場に立たされることが多い。たとえば育てる立場に立つとき、精神障害に向き合わなければならなくなった人に寄り添う時、知的障害の人と人生をどう歩きたいのか模索するとき、初めて自分の認知障害と向き合う人と語り合う時、子育てに行きくれた人の話を聞くとき。たくさんの場合がある。
 いったいどうしてこんなに生きにくいのか。世の中にはこんな思いなぞ味わうこともなく、にこにこと幸せに生きている人もいるだろうに。なぜ私だけがこんなにも苦しむのかと訴えられる時、あなたの尊さを言葉だけではなく、心の底からどう相手に伝えてゆけるのか。
 ここでお世事や、ごまかしでおいしいことをいくら言ったって、それはその人の支えにはならない。ほめるという行為はとても難しい行為だ。人を傷つけないで一緒にいるためには、ただ一つ。うそをつかないこと。ありのままの事実を、足しもせず、引きもせずともにじっくりと見つめること。そして目をそらさず痛みに共に耐えること。


 思いもかけないことに出会ったら、ましてその原因が我がうちにあることを知ったとき、にもかかわらず自分を立てて生きてゆけるのか。その時こそ、本当のことが支えになる。その時こそ真の自尊意識が支えとなる。


私にできることは、その厳しい現実に「ともに耐える人として」そこにいることだと私は思う。キリストが最後まで、十字架の死に至るまで、このどうしようもない私に寄り添ってくださっているとしたら、もはや私は自らの命の終わり方を心配しなくてもよい。



 死ぬことも、生きることも、もはや私にとっては恐れることではなくなってしまう。ただ心を込めて、今日この一日を精いっぱい、自分らしく生きることだと思う。悲しみは悲しみのまま、わが身のうちにあればよい。もはや私は明日の悲しみを心配することはしない。

 
そうやってあの子の死の日から十年生きてきた。あの日私はもう自分はこの子と一緒に死んだと感じていた。今でも心の半分は死んでしまっていると感じる。そうやって生きてきたこの十年は、私にとって精一杯のことだったと思う。もうすぐまた一つ私は年を重ねる。無駄に過ごした時間が限りなくゼロに近い日々であってほしいと願うのだが、ふと無駄を持てることは本当に幸せなことなんだと思う。何も記憶去らず、何も形として残らなかった日々のなんといとおしくて、甘やかなことだろうか。