自死遺族支援

光がほしい

 昨日は第一土曜日。自死遺族支援の日。分かち合いの会だけれどほとんど固定したメンバーの深く心に下りてゆく作業(クローズドワーク)になっている。誰を亡くしたのかというそれぞれの喪失対象との関係は違っても、お互いの立場の違いを超えて痛みと喪失感に向き合っていく。


 そこで大きな問題はファシリの役割。心を開くのはできるけれど、それを閉じて収めて、日常に戻ってゆく作業はとても難しい。困難はその作業をファシリテーターの技量の中で行っていかなければならないということ。穏やかにかつ本人が自分できちんとできるように見守ってゆき、必要な時はファシリテーターが手を貸す。自立しつつきちんとした支えを安心して行えるように保障される。その兼ね合いとタイミングをファシリ自身が自分で習得してゆく必要がある。それは操作を学ぶことではない。文字通り人の心と心の間に水路を切って心が流れ込み緩やかに日常の大河に戻ってゆけるように心を敏感に響かせてゆく。


 参加者は自分の力で自分の日常に戻って行った。そこにこちら側の作為はない。自分の中でをコントロールできたと感じる満足感があるから、この感覚で日常に戻ってゆこうと思える。自分が悲しみに押しつぶされなかったという感覚は自信につながってゆく。そのことが大切。自分が意識的に自分の心のどこまで下りてゆくのかを自分でコントロールできるのかが、日常の中で再び自信をもって生きてゆくことにつながっていく。



 分かち合いの会は自分のコントロールを自分の体験として実感できる場所である。その場所を提供し続けることで後追い自殺を防ぎたい。自死遺族はハイリスク集団である。そのことを本人自身が最もよく知っている。死ぬことでしか再び愛するものと出会えないから。そしてそのことが起きてしまった遠因は自死を防げなかった自分自身にあると思うから。



 私自身の日々の暮らしの中で何ができるのか。悲しみに向き合いながらこの場所を守っていこうと思っている。
帰りに友人の店に立ち寄って印伝の小さな小銭入れを購入。小花が散らしてあって心がやさしくなった。指先が不自由になって小銭をつかみ出すのが難しくなってきたからこれは便利と思った。