昔の友達が亡くなった

木の影を荷台に載せて

 初めての子供を育てていた時、同じ年令の女達が四人仲良しだった。皆長男を育てていて、それなりに子どもたちも仲良しだった。転勤族は私だけであとの三人は土地の人だった。だから私は転勤で出たけれど残り三人はそのまま仲良しで暮らしていたと思った。
 人の一生はわからない。子供が長ずるに従ってそれぞれの子供達の生き方も異なり、進路がわかれるに従って自然と親たちも分かれていった。やがて老親の介護が始まったり、子供の結婚があったり、様々な事情で何時か疎遠になっていて、噂で事情を聞いく程度。たまたまどこかで出会っても、立ち話程度のサラリとした関係になっていった。
 お互いを思いやる気持ちもあって、聞くことのできない話題が増えていった。歳を重ねることは、お互いに人生の浮き沈みを体験してゆくことでもある。相手を思えばこそサラリと分かれることが思いやりになっていった。女の生涯は結婚で大きく揺さぶられる。それは自立しているかいないかではなく、家族の中心にならざるを得ない女の役割がもたらすものでもある。家族の中の様々な事情を皆飲み込んでさばいていく役割を担うのが女なのかもしれない。
 その中の一人が昨日の深夜に亡くなったと連絡が来た。しみじみと過ぎた日々のことを思い、悲しみが沸き上がってくる。そういう歳になったというのか、いやまだまだ生きてやりたいことがあったはずなのになあと思う。世間的には恵まれて何不自由のない人だったけれど、その人生は決して生易しいものではなかった。ひとはそれぞれ自分にしかわからない荷を負って生きていく。今荷をおろしてやっと安らいだ気持ちになっているのだろうと思うと、少しだけ胸の痛みが和らぐ。合掌