ついこの間

りくがめが歩く

 薬をもらいに行ったはずなのに、気がつけば一週間も薬がない。一日が短くなったわけではないのに、あくせくといろんなことに対応している間に時間は駆け抜けてゆくものらしい。こどものときは一日は長く、歳を重ねるほどに短くなりそして止まる。このところ毎月お葬式があり、生きること死ぬことをしみじみと考える、向き合うことが多かった。例え人の目に価値の無いようにみえる一生であっても、神は見えないものを見、聞こえないものを聴いておられる。神の目に気高い。聖書の中にある言葉。人の評価に汲々とし、人の言葉に日々振り回されることの多い私達の人生。本当に恐れねばならんないものはただひとつしか無い。それは神の眼であり、その目は限りなく優しい。7月、8月と高齢の修道女を見送りしみじみと思った。彼女たちの人生は語られることは少ないが、それゆえに残された私達に託された想い、行いは深く記憶に残る。薬をもらうために待っていて、そんなことを思った。親の代わりに薬を受け取りに来る自身も老年の家族の姿を見ながら、いつの日にか私もまた子の世話になって人生を閉じるのだろうかとも思った。
 自分の人生をいかに締めくくるのかは大切なことだ。世の人々は遺言で遺産相続のことや、お墓のことを心配するがその日に至るまでの自分自身の締めくくりはあまり考えないようだ。生きることの最後のステージを自分の締めくくりとして自分らしくあろうとする試みは、たとえ結果が思い通りにはならなくても、自分にとって意味のあることだと思う。私は老い支度の時期に差し掛かっている。
 その感覚は決して悪くはない。ひとは必ず生きてさえいれば」この道を歩く。若くして亡くなった子どもと一緒に、彼の歩くことのできなかったこの道を味わいながら歩き始めてみたい。