やあ、なんか用?

震災の後、街角で猫を見かけることが多くなったような気がする。それは人間と密着して生きてきた猫の宿命かもしれない。人間の暮らし方が大きく変化して、今まで猫を変えた人が猫を飼えなくなって街に家を失った猫が増えたのかな。人懐っこく呼ばなくてもトコトコ擦り寄ってくる猫が増えた。これってなんだか寂しい気分。この猫達は何があったかはわかっていないだろう。ただ現実の変化の中に身をおいて生き延びていくんだよなあ。
 私の関わっている人たちの中でも、震災後に職を失った人たちはとても不安定な中に放り出されている。リストラは密やかなしかし圧倒的な力で押しつぶしてゆく。被災地の求人は倍増しているとひとはいうが其の多くは肉体労働の建設業で、はっきり言ってしまえば復興に伴う土方作業だ。工事現場の作業員に求められる持久力も肉体の逞しさも持たないデスクワークしか知らない30代40代に耐えられる仕事ではない。
 今日仕事を失ったら其の先はないから必死に探すけれど継続して人生設計を考えられるような仕事はこの年代にはなかなか見つからない。
 こんな痛みを誰が書いケチできるのか。これを個人の責任だけで解決まで持っていくことはできない。社会構造の問題だと思う。この年代が生きることに絶望してしまったら、私達の国は5日大きな穴に落ちていくだろう。この年代を大切にしない今の国のあり方に激しい怒りを感じている。大学卒業して年数が経ってしまった時ひとは自分の価値を見失ってしまう。若さでもなく、経験もなくただ人柄だけで勝負するしかないとすれば、就職先が見つからないということは人柄そのものを否定されてしまうことになる。そして生きていく気力を奪う。
 この年代の生きにくさを私はなんともできないのかと歯ぎしりをするけれど、多分政治を司る人々にとって、このような人間は切り捨てても痛みのない人たちなのだろう。
 景気の回復も給料の話も其のスタートラインに立つことさえ許されないこの人たちのこと抜きには語ってはいけないのだと思うのだが。