認知が進むと記憶がとどまらない

灯りがともる

 契約をして、カウンセリング訪問をしても全くそのことを覚えていない。まるで押し入ってきた盗人のように、罵られ、罵倒される。それでも逃げ帰ることはできないから、丁寧に説明しなければならない。話しても話しても混乱は益々激しさを増す。こんなに認知が進む前に打つ手はなかったのだろうか。独居老人の認知の進み具合は周りが気づいた時にはかなりの進行の後のことが多い。社会の中で互いに助けあって支えるための介護保険ではなかったのか。いかにも手ぬるいと思う。
 家族がいても、その人の様子を正確に把握しているとはいえないから、周りが気づいたときはもはや自立できなくなっていることがある。見守るという言葉の空々しさを思う。
 夫婦であっても互いに理解し合っているとは限らない。むしろ相手のことは何も見えないことのほうが多いのではないだろうか。かつて自分が心に描いた「あいての姿」をそのまま今の現実の姿と思い、その間の心や体の変化にはまるで無頓着で気づかない。死の間際まで、認知が進んで感情のコントロールができなくなって爆発するまで気にもしないまま過ぎてゆく。その時ではもう遅い。もう遅いのだ。
 そうなる前にもう一度、いや何度でも「今・ここで」の相手の姿、相手の心と出会わなければその生涯を無残にも打ち砕いたまま償うことも、和解することもできずに終わらせてしまう。