三月から

樹の足元には雪がない

休みなく走り続けてきて、ここに来て起きることが出来なくなりました。23日にユニセフの街頭募金をした後身体に力が入らないと感じました。のどが痛くて風邪を引いたと思いました。スナフキン宅で24日毎年クリスマスファミリーパーティをしている、その最中に身体を縦にしていることが出来なくなり「とにかく眠いから」とパタンと横になったままもう起きていることができず、カテドラルの深夜ミサなんてとても無理で、家に連れ帰って貰いました。そのまま眠って眠って25日の夜半目が覚め叉眠って26日の担当をして戻って叉寝て・・・・今日までそうやって凌ぎました。
 仕事に行っては戻って眠ることの繰り返しで何とか寝込み状態になって仕事に穴を空けることだけは免れてホッとしています。何とか明日予定の仕事が終わったら、あとは姫の成人式用の和服のチェックをして足りない物を買い足して美容院に一式お預けをしておかなくては。そこまでやって、やっと年越しの準備にかかる。
 ここまでくたびれていたのだということが、倒れてみなければ判らなかった。何時か時期が来たら、ここに書くことが出来るかもしれないけれど、今は書くことが出来ない。
 あまりにも悲惨な光景を見てきた。人間のすごさも、業の悲しさも見てきた。話せないこと、言葉にしてはいけないことも見てきた。そのつもり積もった思いを、もうためておくことが出来なかった。眠り続けて夢を沢山見た。自分の中に寄せては引いてゆく記憶の高波。
 言葉をつむぐことができなくなった。


 書くことが出来ないから、PCを開くことも出来なかった。自分の心の壁が崩れ落ちて行く怖さ。言葉は形を持ったらどこまでも人から人に伝わっていく。とめることは出来ない。一度吐き出した言葉は、もうなかったことにはならない。怖かった。

 津波で流されて根こそぎ何もなくなってしまった街に立って、私はここにいる。ここに生きていく。そう繰り返し思った。

 何をしていけばよいのか。何が出来るのか。何をしなければならないのか。今できること。いましなければならないこと。それは何か。

 後悔したくはない。今しなければならないことを、今しないでどうするか。私の命があることがもたらしていくものを、確認したい。命には命にしか果たせない役割があるのだ。自己満足だとか、自己憐憫だとか、そんな物は別次元のこと。生きているものにしか果たすことの出来ない役割がある。死に満ち溢れているこの街、人間の尊厳が失われ続けていくこの街、ひっそりと一隅に燈る明かりであることの意味。