風の音がしない朝

一生けんめい咲いている

 久しぶりに小鳥の声で目が覚めた。小鳥達は人間の世界のひっくり返るような大騒ぎを、知らずただ日々のかすかな気温の差や天候の異変に身をゆだねて、今日一日を生きている。彼らには思考はないのだろうから、明日という概念もないだろう。明日があるから何とか今日を生きている人間の生き方から見れば、それがどのような感覚なのかはわからない。 聖書では今日一日を生きよと示されているけれど、明日なき身になって初めてその真意が判るような気がしている。その心境に一番近いのが、癌を告知されてあらかじめ、命の期限を知った人ではなかろうか。
 明日を気にしないで命を足し算で考えていく人と、命を残り時間として引き算で考えていく人と、同じ時間の過ごし方でも中身は異なってくる。小鳥のように、何があっても今日を限りに生き切っていく生き方はどちらに近いのだろうか・・・
 明日が、今日を耐える力を生むことがある。それは充分わかった上で尚、この日一日をいとおしいと思って生きることはできないだろうか。
 実際足し算で生きている人にだって突然の死はやってくるのだ。それを知らされているか知らされていないかの違いではないのか。
 そう思うと、突然の死を受容するのと、あらかじめの死を受容するのとどちらが善いとは言えないように感じる。ママのようにいつ自分が認知症になっていったのかわからないまま、家族と自分の間に隔ての感覚が生まれて孤独感に落ち込む生き方もまた、痛みのあるものだ。押しなべて考えてゆくと、みな同じはかりの上で自分を図っているように見える。そして改めて私は如何なのだと思う。