精神病院と施設訪問

ベランダミント

 今多くの精神病院で社会的入院が問題になっているが、実際病状が安定せず一時退院もままならぬまま年を重ねていく人も少なくない。それでも、今は精神科の薬は日進月歩で多くの病気を薬でコントロールできるようになった。だから、薬によって病状がコントロールできるようになれば積極的に社会生活に戻して地域で自律しながら治療を続けていく方策が採られている。
 それでも家族の引き受けがなかったり、天涯孤独だったりして長期間病院を生活の場にせざるを得ない人が多いのも現実。入院に至るまで家族の抱えた困難は筆舌に尽くしがたい場合が多い。人間関係がこじれた挙句の入院になった方も少なくない。そんな方達の生活を支えておられる病院職員の多くはやさしい。私のような部外者はいくら本人の要請であっても煙たい存在であろうに、聞き取れない言葉を補ってくれたり、事情を推し量ってくれたり、それを優しい笑顔であらわしてくれる。見守るという言葉が本来の使われ方で使われている。
 あるワーカーが福祉関係業務職員の一方的な事情調査に「まず来て本人に会ってください。その上で必要な資料を請求してください」と抗議した。頑なとも思われかねないその言葉には 病気ではなくその人を見てください という暖かな思いを感じた。私はこのような人間らしい沢山の関係者と出会えたことを感謝している。


 今日も困難ではあったが穏やかな時間が過ぎていった。もはや自分がここから外の社会に戻って生活することはないと悟った○さんは「もうトランクルームはいらない」といいだした。何時か戻るかもしれないから家財道具を預けている。ベッドひとつ戸棚ひとつの今の空間で自分は生涯を終わるからもう無駄なお金を使うことはいらないといいたかったらしい。ワーカーは「大切な物が入っているから、何時かきっと使うかもしれないからね」と優しく言った。胸が熱くなった。「何時かきっと」を見失ったら、入院生活は閉ざされて出口のないものになってしまう。たとえ結果としてそうなってしまったにしても、いつかきっとを信じて人は生きていくものだ。私もそう信じてこの人と関わっていこうと思った。
 もちろん現実は現実。甘くはない。戻った事務局で報告書を作成していたとき、悲鳴が聞こえた。面接中の職員がクライエントに襲われた。噛み付かれて手に怪我をした。相手は障害を持っているから仕方がないと言う声を聞いて、それは違うだろうと私一人思っていた。悪いことは悪い。間違っていることは間違っていると伝えて初めて差別のない関係が生まれるのだと思う。思うことは沢山ある。不用意な発言はできないけれど思いは熱く心を巡る。