楽天

 今日CS第一戦がある。このチームが出来た時の、誰がスポンサーになるのかという大騒ぎや、誰が監督になるのかという騒ぎや、ホームグラウンドの企業名がゴタゴタと変わったことやこのチームには様々な出来事があった。そして集められた選手達の顔ぶれも、誰も引き取り手のいないいわば戦力外の選手ばかりだった。勝てるはずがないと思ったのに、何故か街の人たちは熱くなった。
 それは東北という土地の背負っている「いなか」という引け目がそうさせたのかもしれないし、いくら政令指定都市になっても、大きな催しは頭の上を素通りして札幌へ行ってしまう悔しさ。大学の格も今でこそ東北大学は世界的に大きな成果を認められつつあるが、東大、京大の老舗には太刀打ちなど出来ない。幾ら旧帝大で最初の女子入学を認めた学校であるといってみても、その新取の気風があるかといえば・・・ない。日本でより外国での評価の方が高い。そしてその評価は市民には知られていない。
 伊達政宗の洒脱さと豪快さと緻密さがあるかといえば、荒削りな部分ばかりが目に付く。何をやっても二流にしか見られない情けなさが市民の中にあると、私は感じた。それは転勤族であちこちの場所を観光客ではなく、住民の目で見、体感してきたから感じ取れたものかもしれない。同じ東北の地方都市であっても、米沢、弘前、そして盛岡の骨太の気風と気骨はこの町には感じられなかった。
 それがこの15年ほどの間に古いものではなく、新たに生み出されたもの、支店のように中央にぶら下がったものではない発想から生まれたモノが生まれ成長してきた。それが音楽では仙台国際コンクール(これを支えるのは市民ボランティアである)演劇・戯曲コンクールであるし、世界的に「ジョウゼンジ・ジャズフェス」で通じるようになった定禅寺通りのジャズフェステイバルであり、野球・サッカー・バスケットボール等のプロチームだろう。負けても負けても市民は見放さない。せっせと応援に駆けつける。それはまるでかつてのヒロシマカープを支える市民の姿のようだ。何時しか、私たちのチームになっている。弱いけれど、私たちが付いているから、応援するからきっと勝てる。応援という参加型の試合が出現した。これがもし圧倒的に強いチームであったら、ここ誕生のチームでなかったならこれほど熱くはならなかっただろう。まさにチームは自分の子供たちなのだと思う。かつて仙台にロッテがホームを定めて撤退したとき「仙台は冷たかった」と報道された記憶がある。
 いづれにしても楽天は選手だけではなく、野村監督も引退したはずの人がなんで?と思わせるタイミングであった。選手も監督も皆新たにここでサバイバルしている。まるで私たちに「頑張れば見返してやれるんだよ」といっているかのようだった。だから応援する側は熱くなる。他人事ではなくなる。
 CS第一戦の直前に野村監督の解任が発表された。あっけにとられた。後任の星野監督はやりにくかろう。市民が野村監督に感じたもの「あの奥さんに翻弄されているショッパイおじさん」に感じた相憐れむ感情が大きかったのも事実だから。私たちに知らされていない諸事情をかんぐる気もないが、今夜仙台はその全てを込めて熱く燃え上がるだろう。勝っても負けてもこのチームにもこの監督にもうこの次はないのだから。

そして楽天は勝っている。勝っちゃってる。どよめきの中あの楽天が勝っている。
11対4で勝った。ほほほっほ・・・・明日が恐いけど。