目一杯洗濯

雲が切れた

 空気まで洗われてさっぱりしたような朝。朝一番は洗濯をすると決めた。原稿も仕上げたいし、今日は担当のクライエントが入院してしまって空いた一日。大切な時間。勿論元気に退院してくることを願ってはいる。現実は厳しい。一度壊れた心臓は元には戻らないし、高齢者の一人暮らしには限界がある。その限界の時期なのかなあとも思うが。一人暮らしの限界の見極めは難しい。
 特に持ち家の場合は、自分の家は自分が守らなくて誰が守るという意識が強い。そしてその意識が生活力を保つ原動力にもなっているのだが。不可抗力の能力低下の結果守りきれなくなり、全体に生活能力が落ちた時、自覚出来る人は少ない。この自分の城から施設への移行をスムーズに出来た人は終わりの日々を周りとの軋轢なしに豊かに穏やかに過ごせるように思うが、そこがかみ合わなかった人は「いえにかえらねば」の思いが強く中々今いる場所になじむことが出来ない。戦いながら施設で過ごすことは施設の職員にとっても、その人にとっても不幸せなことだと思う。老いは必ず来る。その時いつまでも一人で暮らすならばそのための手立てをきちんとしておく必要がある。終の棲家を定め、自分の基礎能力を高め、人的資産、社会的支援体制も熟知してきちんとした計画を持って老いにスライドしてゆくべきだ。
 このところ受け持ちのお年寄りにトラブルが多発していてついつい考え続けていることを書いているけれど、これを読んでおられる方は、色々反論がおありだろうな。人の生き方死に方ってどれが正しくてどれが間違っているなんて本当はいえないような気もしている。たとえ私にとって「はてな」と思う事だってその人にとっては必要十分条件かもしれないのだもの。だから面白いのかな。人生って奴は。