聞くということ

 聞く、聴く、訊く。もっと沢山の「きく」があるような気がしている。私たちは自分の聞きたいように選択してきいている。そしてそのことに気がつかない。無意識に聞いているからだ。SVをしていて同じ話を聞いているのに何故こんなにも受け止め方が違うのだろうかと思うことがある。事情を訊くのではなく心のありようを聞き取るとき、聞き手の心と話し手の心が共振れできないのならばそれは厳密な意味で聞いたことにはならない。語り手が何をその言葉に載せたのか、それを察知するための耳を持たなければならない。ストーリーは本当は問題ではなく、そのストーリーの底を流れている「思い」を掬い取ることが必要だ。
 カウンセラーが話を聞いていながら語られていない本当の物語を受け止めるのはそれができたときである。言葉を纏った心の姿をそっと壊さないでつかみ取るための感性を磨くこと。それは並大抵のことではない。このごろクリニックカウンセラーにダメージを受けている人のお世話をすることが増えている。専門職であるがゆえに失ってゆくものがある事を知ってもらいたいと思うことがある。まず人間なのだ。例え病んでいても人間なのだ。病んでいる部分とそうでない部分を併せ持っている苦しさを判って欲しい。頭ではなく心でわかって欲しい。心の平和が欲しくて、傷を負って帰るくらいむごいことはない。
 今カウンセラーは流行の職業の一つになりつつある。かなりの苦労をして指定大学院を出て試験を受けて臨床心理士として若い人が現場に立つ。それは決して悪いことではない。何故そこでゴールしてしまうのだろうか。そこからが始まりなのに。そしてそれだけが資格ではないのに。
 相手は生身の人間である。百人いれば百の物語がある。分析しても、し尽くすことはできない。分析の網の中から零れ落ちていったものを捨てていく作業は相手の心を捨てていくこと。型に収めてゆくことでもある。SVをしながらそのことをいかに伝えていったらよいのかと思う。特にクライエントとクリニックカウンセラーのように対等な関係を作りにくい場合、クライエントはひっそりと傷つき、ひとりで傷を抱え込む。
 一体誰がそのことを現場に発信したらよいのだろうか。守秘義務があるから、個人情報は出せない。語られたことは外に出ることは無い。そのことに守られているのは誰なのだろうかと思う。
 色んな思いを抱えながら今日も日が暮れていく。