本来は水曜日の式だが

mugisan2009-03-01

 式を日曜日に移動して今日とりおこなった。去年の枝の祝日に貰った棕櫚の枝を持ってきて焼いて灰を作り、頭に灰のしるしを頂いて「灰から生まれ、灰に帰るもの」であることを確認する。四旬節の始まりの日の記念。今日は洗礼志願者の入門式も行われた。死からいのちへの旅が始まる。
 わたしは四旬節が好きだ。人生の意味を思い巡らし、死んでいった人々のことを思いうかべながら、やがて来る自分自身の最後を思う。四十日の黙想が始まる。子供の頃からこの苦しみの季節が一番気持ちが落ち着いた。なぜかは分からないけれど、わたしの心の中にいのちの始まりと終わりが深く刻まれているようだ。
 毎日仕事で出会う方の中にも死の影は付きまとう。死を拒否するのではなく、だからこそいとおしい残りの時間を大切に過ごしたい。いのちはその最後の時までその人のかけがえのないもの。教会の来られているかたがたもお年を召した方が目に付く。ひっそりとある時からその方の席が空いたままになり、やがて訃報が届く。日常の中に死の影はいつもあるのに、わたし達はあえてその影を見ないようにして生きている。四旬節はいのちの中に誰もが抱えている終りの時の予感を静かに噛み締める時間だ。友人のご主人ががんになり、途端に何もかも奥様に頼らなければできない人になってしまった。検査も病院についてきて欲しい、放射線治療にも一緒でなければ嫌だ・・・それまで社会の第一線で颯爽と歩いてこられた方の余りの変わりように奥様もどう対処してよいのか分からず振り回されている。
 生まれた時は一人なのだ。死ぬ時もまた一人で死んでゆかねばならないのだと思うけれど、直接本人には言えないでいる。夫婦の間に他人が立ち入る場所はないから。こんな日はブラームスを聴きたいがもうCDはとっくに運び去られてしまった。