認知症の辛さを分かってください

日没まであと1時間

 悪い気持ちではないのに、相手に理解されず、気持ちが真っすぐに相手に届かないもどかしさ。○さんと会う時いつも感じる。○さんの頭にあるのは、お金を失う不安。誰かが自分をだまそうとしているのではないか。自分の生活が奪われていく不安。そして何より大きいのは、自分自身が信頼できない不安。だから些細なことにも神経を苛立たせてしまう。「違うよ」といわれたくない。自分に理解できないことを、あたかも皆が知っていて、自分だけ取り残されているような言い方をしないで欲しい。などなど・・・数えていったら気持ちが休まらない理由は山のようにある。
 人はすべからく老いてゆくものだが、誰もが認知障害を抱えるわけではない。そして認知症になった人全てが自分がおかしくなりつつあると意識するわけではない。自分が周りの判断と整合性を持っているかどうかが分からない不安。記憶が正確ではない。穴だらけで穴の部分があることさえ自分では認識できない不安。認知の歪みどころか記憶に残らない不安。いつも何かしら自分の判断や行動に疑問符が付いてくることは耐え難い恐怖を抱え込むことになる。
 だから怒りやすくなる。その怒りの原点は自分自身に対する苛立ちにある。何故わたしはこうなの。あの賢かった私は何処に行ったの。というやりきれない絶望感。自分の現実を受け入れられない悲しみ。その上に現実に起こってくる様々な出来事に適応してゆけない怒りが乗っかる。
 諦めて何も言わず周りの人の言いなりになるのも一つの処世術。何もかももう自分の判断ではなく、相手にゆだねてゆく生き方を選ぶか。多くのお年寄りが「もう分からなくなったから」というのはこの生き方だ。年を取ったら丸くなったとか、何も分からなくなったとか周りは言うが、本当にそうなのか。そこには何を言っても無駄という深い大きな諦めがないのか。
 頑固だからといわれる時、何をそこまでこの人は守りたいのか。その譲れない姿は何を表しているのか。そこまでかたくなになってしまったゆえんは何なのか。歩み寄ることは出来ないのか。他に手はないのか。最早一人で生きることそのものが手に余っていて、もう少し援助を受ければ自分らしく生きられるのか。たとえば施設に入所して生活の部分は施設にゆだねて、自分の時間を自分らしくある事に注ぐという方法はないのか。 
 要介護2くらいの人が一番回りが混乱して苦しいように感じる。まだ一人で生きようとすれば出来そう。でも相当の混乱と障害が見えている。何処で施設介護に踏み切るのか。見極めようにも本人にはその自覚は殆どない。周りが自分から生活を奪おうとしているとしか感じない場合が多い。まだ大丈夫。手も足も動くし、ナンだって出来る。・・・・つもりなの・・・・
 認知症の悲劇はこの時点が一番大きいのかなと思う。もしわたしがそうなったらどうするだろうか。判断能力がかすかに残っていれば、もし残っていなかったら・・・事前に前倒しで身の振り方を考え、いくつかの計画案を持っておいたほうが良いと思う。体が動かず、知的活動は失っていない場合。身体も知的活動も危ない場合、身体はかろうじてしかし知的活動は停止の場合。恐らくもっとも困難なのは最後の場合だろう。その時私は誰に負担をかけているのかさえ分からないのだろうから。そうなったら家族に社会的措置を取ってもらい肉体の維持をゆだねてゆくのだろうか。しかしいくら知的混濁があっても感情や感性は私の中に残っているのだろうから、そこまで失ってしまうのは悲しいナとも思う。老いの問題は全ての人に平等に来る。あすはわが身なのだ。他人事ではない。
 今日訪問先でしみじみとおもった。私を最後の寄り添い人に選んでくれた○さんの希望に添える場所に私はいることが許されないのだ。そのことをいつこの人は理解するのだろうか。静かに認知が進んでいく中でそれはさいごはフェードアウトしてかすかな記憶の痕跡になるだろう。その時はそう遠くはない。ならばぎりぎりまで穏やかに手を携えて同じ道を歩んでいくのが私の執りうる最良のことなのかもしれない。いつかわたしの手がはなれても気が付かないその時が来るのだとしたら。