訪問を終わって

 一人暮らしで老いを迎えることの厳しさを思いました。何も特定の人に限ったものではなく誰でも最後は一人暮らしを覚悟する必要があるということです。一緒に死ぬ確率は限りなく低いのですから。もし私が残っても、親分が残っても、子供の誰かと同居する確率は低いでしょう。今、私達の家族のあり方は社会一般に見ても、家族構成は外に向かって開かれておらず、一旦小さな単位で家族が構成されてしまうと外から開けられるドアの取っ手は取り外されてしまうようです。基本的には親は子供を育てたらそこから先は自分自身の人生の締めくくりは自分自身でつけねばならないようです。介護保険や介護福祉はそのことを前提に作られているのでしょう。家族もまた夫婦単位であり子供が改めて年老いた親を引き取り同居するケースは多くの問題を新たに生み出します。経済的な事情が絡むがゆえに第三者も中々介入できにくい環境になっています。経済的に配慮して自分の支払い可能な施設に入所して、それが老人病院か、介護施設かは別として職業として関わっている人たちに、苗字で呼ばれつつ最後の時を迎えてゆくのでしょう。多くは家族ではなく他人の中で最後を迎えお骨になって家族を素通りして大地に返ってゆくのが現代の私達の人生の最後のようです。
 私自身は叶うならば小さな家でシンプルに自分らしく暮らして一人で旅立てたらよいなと思っています。凛として生きられたなら、それで自分を評価してやりたいと思っています。苗字で呼ばれながら死ぬのもその瞬間は最早何の重きも無いことですが、せめてそこにいたる道筋を自分らしくたどりたいのです。多くの方が不幸であるというわけではありません。私は歌いたい時に自分の歌を自分の心のために歌いたい。描きたい時に自分の心のために描きたい。風に吹かれたいときに風の中に立ちたい。tっ太それだけの願いがどれほど難しいことなのかを身にしみて知ったから、そのように思うのです。人生は孤独な営みです。孤独であること梨に自律はありえないと思います。自律も自立もいかに依存せず、いかに寄りかからず自らをきちんと飼いならしていけるのかに掛かっていると思います。孤独を知っている人間は、人に対して優しく出来る人だと私は思っています。