お前はお前の道を行け

 私は何を自分の道として生きてきたのか。立ち止まって考える時期に来た。親の介護に明け暮れ、子供を育て、その全てが今私の手を離れようとしている時、残る人間関係は夫婦しかない。この絆が私の最後のものになるのか。それともこれさえも過ぎ去ってゆくものなのか。安穏と既成事実に乗っかって生きてゆくことは許されない。心はそんなまやかしで沈黙はしない。多くの女たちが自立経済を営めないがゆえに、これが最終就職だと覚悟をして夫の介護を前提に夫婦関係を維持しているのを見てきた。妻と言う名前の職業を選択する以外に本当に自分らしく生きる手段は無いのだろうか。
 年齢を重ねて、重ねたがゆえに最早維持できなくなった関係を職業と考えて維持してゆくことのせつなさ。女という生き方は酷だなあと思うことしきり。離婚は口で言うほど結果は自由でも安易でもない。離婚後の暮らしの厳しさを目の当たりにして「いくも地獄かえるも地獄」といった人の言葉を思う。
 お互いに夫婦と言う生き方を自分の言葉で語り合うことは出来ないものだろうか。せめてベストフレンドとしてお互いの命の時間を守りあうことは出来ないのだろうか。一つ屋根の下で冷たい沈黙と苛立ちをかみ殺して命をすり減らしてゆくことはおろかだ。
 ある人が病気で死に別れられる人は幸せだといった。配偶者の病気を看取り、看取ることで強められてゆく関係の中で自己昇華できるものがある。たとえまやかしでも一時のことであれば人は天使になれるし、天使になった記憶が全てを押し流し被い尽くす事だってあるのだ。何事も無い平安な日々の営みの中でお互いの全てを受け入れ、認知し、愛情を維持することは人間性の極地を行く旅だ。
 多くの人生に寄り添い、見つめてきたがゆえに改めて私は私に問いかける。お前はどこに行こうとしているのか。お前の道はこの道なのか。
 盛岡の友人からセルフ・エンカウンターの連絡が来た。この時期に誘いが来たことに意外さを感じた。私にとって必要な時間を与えられたのかもしれないな。物事は無理に揺り動かしさえしなければ静かにその場所に定まってゆくものかもしれない。真冬の盛岡を訪れるのも悪くは無いな。