与える

 赤毛のアンの中に貧しくても心から分かち合うことの出来る人たちを呼ぶ「ヨゼフの一族」という言葉が出てくる。自分一人ではなく誰かと一緒に喜びたい。分かち合うことを最上のもてなしと感じる人たち。
 私の家族はどうも「ヨゼフの一族」らしい。 クリスマスや誕生日はだからものすごいことになる。普段欲しくてたまらなかったものがお祝いとして皆から贈られる。喜ぶ顔が見られるだけでもうそのためだけに何も惜しまない。その人が何が欲しいのかはその人の生活や気持ちが分からなければ出来ないこと。ピッタンコのものをもらったとき「こんなにも私の気持ちを理解してくれていたのか」と嬉しくなる。ほぼ一年かけてじっくりと探す。お金が足りなければ協力者を募って組んでプレゼントする。間に合わせだけは絶対にしない。まだ人間が未熟なうちは自分の欲しいものを贈って「借りて」取り上げてしまう御馬鹿もいたがもうみんな大人になってそんなことも笑い話になった。ことしのサンタフィーバーは見ものだ。
 贈り物はその人を理解しなければ分からない。だから贈られたものが自分の心に響くときその人が自分をどれほどに理解してくれているか、愛してくれているかを感じる。金額ではない。娘が誕生日のプレゼントを選びながら「予算」の中でどれほどもらった人が「がっかりしたり、さびしくなったりしないもの」を探せるのか、必死になって探しているのを見てほほえましいと思った。物ではない、心だよと思いながらこの一年に行きかった贈り物を思い浮かべている。
 与えることが義務ではなく喜びであって欲しいと願う。
さて今年私にサンタは何を持ってきてくれるのだろうか。もらう側にもどれだけ心を開いて相手と通じ合っているのかを問われるのだから送り手だけの問題ではないのだ。母は分かりにくいかもしれないと思う。いつも聞かれると「愛と勇気」と答えるものだからこのごろは「ああ、何でもいいのね」といなされてしまう。