猫ばあば

身内はいないわけではない。でも事情があるから孤独に生きている。よくある話だ。よくある話であっても其処にはまぎれもなく一人の人間がいてひとつの人生がある。一匹の猫を家族として扱うことでこの人の人生が慶びに満ちたものに成るならば何とかしてその人らしい生き方を支えてゆきたい。たかが猫一匹されどこの一匹の猫をめぐって賛否両論が飛び交う。ヘルパーはペットの餌や家族の世話はしない。あくまでその人自身の介護しか出来ない。そういう制度なのだ。介護制度の中身にはペットによるアニマルセラピーの思想はない。どんなにQOLを訴えてもペットを全面否定せざるを得ないあり方は果たして本質的な部分でかけているものがあるのではないだろうか。人間は単体では存在しにくい。社会性を持って共同生活をするように定められた命である。一匹だけで生きている蟻、一匹だけで生きている蜂を想像できないように、人間も形は様々であってもだれかとかかわっていきているのだ。例え人生の伴侶が犬・猫・亀・小鳥などのペットであってもそれは家族として認知すべきだと思う。現在ペットの餌を買うことがヘルパーには赦されない。本人は勿論買いに行く能力はない。ならば言葉で禁止しなくても飼う事を不可能にしているのは歴然としている。こんなやさしさのない形だけの介護の現場が在って、其処でどうにも成らなくなって悲しむお年寄りが沢山いる。何とかして避妊手術の経費を貯金して、なんとか獣医つれてゆく手段を見つけ出してなんとかこの一匹の猫を人生最後の家族として認知してあげられないだろうかと思う。たかが猫というけれどたった一人で生きる孤独を知らないからだと思う。


猫ばあばは(愛を込めて私は心の中でこう呼ぶ)

「夜更けに明かりの消えた部屋にひとりで座っている。月が煌々と照っているとき胸のおく底からこみ上げてくる寂しさは例えようもない。」


「猫がそっと寄り添ってくれるとそれが支えに感じる」


「生きているもののぬくもりが必要な時がある」


その思いを貧しいから、認知症の年寄りだからと握りつぶしていいのだろうか。こんなささやかな願いさえ聞き入れられない介護サービスの現状に怒りを感じる。余りにも貧しいではないか。