講話書き

真面目に講話を書いていると、いつの間にかおなかがすいて『ああご飯の支度をしなければ』と思う。頭がどんなに忙しくても体は自分の仕事の時間を覚えている。不思議なものだ。誰に言われなくてもコレは私の役割だと思う。こうやって数十年を過ごして、いつしか認知症になっても時間が来れば台所に立ったつもりになったり、献立を考えてみたりお風呂を沸かしたりするのだろうな。たとえ自分の時間と回りの時間が食い違っていても。作ってあげる相手が居なくなっても。周りに人がいれば狂いは直ぐ知れてしまうがコレが一人でひっそり暮らしていたら誰にも気付かれることは無いのだろうか。私はどんなおばあさんになるのだろうか。