ごく当たり前だったことが

「いつの間にか出来なくなった」と気がついたときってどんな気持ちだろうか。見えていたはずの文字が見えにくくなり出来たはずの指先の細かい作業が出来なくなり、聞こえていたはずの音が聞こえにくくなり、覚えたはずの事が出てこなくなり、話したつもりが通じていない。沢山のなんでもないはずの事が出来なくなっていることに気が付いたとき最初に感じるのは情けなさ、惨めさ、来るべきものが来た事に対する恐れ、自分がどうなってゆくのか分からない恐れ、失ってゆく能力に対するやりきれなさそして不甲斐なさ。怒り。自分に対していらだつ。
 老いの始まりは失うことから始まる。このことをよくよく覚えていないと、ある日愛する者が「もう老いてしまったのだ」と気がついたとき、相手のかかえているこれら複雑な思いを包み込む事が出来ない。「あなたはもう老いてしまったのだ」と、老いの中に置き去りにする。若しくは自分自身がそうであった場合、周りが気が付いてくれないことにいらだつ反面、自分の窮地と困惑を隠そうとする。何も無かったかのように。