冷たい雨が降っている

氷雨と言う言葉が好きだ。いかにも雨の状況を端的に表している。言葉って美しいなあと思ったり。この朝の忙しいときに。言葉の存在に強く揺さぶられた。夕べNPOの立ち上げた自殺遺族の会のあり方について長い電話でのやり取りをした。私は基本的には同じ体験をしたサバイバーが互いにカウンセリングをする方法でなければこの支援活動は困難だろうと感じている。当事者でなければ感じ取れない、当事者であれば説明しなくても分かる多くの痛みを分かち合い支えあう。切羽詰った感情の瀬戸際にいちいち言葉でしか分からない人の存在はわずらわしく疲労感を与えることが多い。寧ろ言葉は語るのではなく、こぼれ、あふれるもので、その悲しみの泉を持たないものはあふれる言葉を持たないのだ。コレは当事者間の優劣をさすのではなく、立場の違いは超えることが出来ないのだと言う意味において。言い換えれば同じ痛みをかかえたものが支えるか、それとも宗教者のように己自信が人間の社会で死んだものと自覚している者しか共感できないのではないだろうかと思う。研究者は知識的に分析は出来てもそれを共有し共感することはまた次元の違うことなのだ。人の悲しみや苦しみを生業とするものが結果としてデーターを集める事になって行く形でともにいることは許されないように思う。彼らは「ならばこの分野の研究は出来ない」と言うのだろうが、それは形を変えてやるしかない。それはそれで別の場所ではっきり協力者を募ればよい。この場所を借りて、ついでに私にも協力してくださいと言うのは筋が違う、今後の援助活動の研究のために協力して欲しい、と言うやり方は悲嘆にくれるものにとってむごいことだ。
 こんなことを深夜はなしたら眠れなくなってしまった。私の船は何処に向かって流されてゆくのだろうか。願いは一つ「残された家族が死んだものを忘れることなく・うらむことなく・自分の命を失うことなく・最後まで亡くなったものと共に旅を続けられる」ことだ。その支えとなりたい。