年度

師匠の通勤路

どうも長々と学生をやり続けていると(勿論子育て中の子供たちの学校生活も含めて)頭の中のカレンダーが4月始まりになっているなと感じる。リセットSWを押すように、新しいカレンダーを架け替えるようにこの日を堺に真新しい白い日付だけの一年がやってくるような錯覚。もういい加減な年齢だから、そんな都合のいいことがあるわけでもなく、寧ろその日付が来年の年度末まであるという保障も無い事くらい重々わかって居る。それでも、過去は最早手の届かない修正不可能な時間として失われ、未来は不確実なままあたかも確実ででもあるかのように想定されて、今日という一日が予定されている。確実なものなど何一つないのだということに私たちはなじめない。どんどん黒くなってゆくスケジュール表の空欄を探しながらさらに埋めようとしている自分の行為が、そういった全ての不確かさから,眼をそらそうとしているかのように思えてきてゾクッとする。私が居なくなったら、瞬時にしてこれらのことは誰かのスケジュールに組み込まれ、物事自体は滞りなく進んでゆく。
 私の頭の中にかつて見た「西部戦線異状なし」のラストシーンが鮮やかに残っている。差し出された指先、舞う蝶。そして銃声。確かに一人の人間が今死んだのにその日の記録は「西部戦線異状なし」。多分13歳の私にとってそれは初めて個人の人生と世の中の構造に気がついた一瞬だったのだろう。
 私が居なくても、一生懸命生きていても、どちらであっても世の中は何の痛手も受けなければショックもない。私が生きてゆくことを喜んでもくれない。生きるということはただ私にとってのみ価値のある掛け替えのないことなのだ。だとしたら、私はあくまで自分の人生の主体性を手渡してはならない。誰が何と言っても、誰かの利益になるとしても、私は私の人生の決定権を自分で持たなければならない。それは自分勝手に生きたいということではなく、寧ろ自分の人生の幸いも不幸せも全て自分の責任において受け止める、誰のせいにもしないという決意だったように思う。
 自分が養子だと分かった時期とそれは重なっている。人生が「私の」という固有名詞で私に迫ってきた時期。逃げる事はしない、何があっても逃げないときめた。13歳の4月私は自分が背負ってきたもの、これから背負わなければならないもの、失った家族その全てへの関わりの距離の覚悟を決めた。
 だから4月の年度始めの時期は私にとってそのことを思い出さずに居られない区切りの時なのだ。私以外の誰にとっても無意味な事だけれど、私にとっては私の差し出した指先に蝶が舞うそんな時なのだ。
 今年は新たに仕事が二つ増えた。上手く時間をやりくりしてこの一年を静かに生きて行きたい。慌しく駆け抜けることだけはしたくない。