寒波がやってきて居座って

 盛岡から来たときストーブが各部屋分あったのを少し処分してきた。その後たまりかねて一台買った。しかし、何しろ人間の数が多いのと、各自持ち込んだガラクタでストーブを設置する事が危険で今2台しか稼動していない。幾ら仙台でも暖房のない部屋の住人は寒いはずだと思う。物を処分してスペースを開けてストーブだそうよというが「今年の灯油価格の高騰ではこれ以上灯油を炊く場所を増やすのは・・・」「有ればついつい使ってしまうから」と要するに、部屋を空にするくらいなら寒さくらい我慢しますという事か?確かに其々の部屋はマシン室と化しているしな。
 そのうち春は来るか。盛岡で寒さに絶える事を骨の髄まで叩き込まれて育ったから、この程度の事でなんだよと思っているのは確かだ。季候は人間を育てる。
 毎年冬になると北の街の凛としたたたずまいを思う。あの街では雪かきなどとは言わない。凍りついた道路の雪をパワーシャベルが砕き、人々はつるはしで自分の家の前の道の氷を砕く。削岩ドリルを使う人もいた。雪を車道に広げるなどという無作法はしなかった。今は平気で車道に投げ捨てて車に踏ませて砕くという風景もありなんだそうだが。
 数年前のセンター試験の日、ドミニカンのマ・スールが1人お亡くなりになった。院長のお話では、前の日まで皆と雪かきをしていたのに、さぞや体が苦しかったでしょうに。とのことだった。雪深い土地にある修道院はそれだけでも厳しい修道生活を送ることになるのだなと思った。その意味で、日本で一番厳しい修道会は、稚内にあるフランス系の修道会だろう。この会はマ・スール達はその土地の人の中で同じ労働をしながら、神を伝える。ここのフランス人のマ・スールは冬は昆布拾いを土地の人に混じってやり、他の季節は加工工場で働くという。若い大学生でも音をあげる厳しい労働だ。あの土地の寒さは「日本じゃない」くらい凄い。素朴で暖かい修道女の笑顔に胸を衝かれた。遠い東の果ての国に来て娘が過酷な労働をしながら、こんなに輝く笑顔を持っているなんて、この人を育てたご両親はどんな方だったのだろうか。どんな家庭だったんだろうか。
 ライブドア騒ぎを眺めながら、真実の豊かさ、人生の実りとは何をさすのだろうかと思い巡らしている。なくなったマ・スールの訃報を聞いたのは岩手大学の構内だった。センターを終わって帰る師匠を迎えに行って頭上高く白鳥が渡っていった時だった。人は皆同じように裸で生まれ、死んで一握の灰になる。消えてゆく命の書に記されている時間の記録さえ読む人は居ない。生きてこそ、生きてこそなんだと思った。
 自分が生きているこの一瞬の想い、行い、怠りを自分の責任として負える生き方をしたいものだ。信仰のもたらす強さとは、やがて無に帰してゆくこの私という存在を、大いなる存在の中に投射する意思を持つことなのではないだろうか。人生が有意なものであれば例えそれが人間のレベルで理解されなくても評価されなくても、私と神の関係の中で生きることが意味あるものとなってゆく。人間は命を旅するものであるというが、私は流されるのではなく自由意志を持って流れに掉さす生き方をして行きたい。