煮林檎と手編み

 林檎はオーブンで焼くとたまらん美味しさだけど、電気代を考えてつい煮林檎にしてしまいます。それでもあのうす桃色の淡い色に染まった甘酸っぱい薫り高い林檎のコンポートは最高の贅沢。今日は無理だけど、明日一なべ煮る事にします。
 毎年何か一品家族や友人達に手作りのものをプレゼントしています。今年はブークレーの変わり糸でマフラーと、ベレー帽を編みまくっています。ベレー帽は色糸を組み合わせてシックな感じに。片っ端から編み上げては差し上げているのでどれくらい編んだか分からないのですが。手作りの物を差し上げると頂いた方は偉く迷惑かもしれませんが、寒いときに手編みのものは実用的かと思って。昔は総模様で編み込みのセーターを秋から編み始めたのですが、今はそれだけの時間を産み出せなくてせめて小物ですが。ターシャがやっぱり同じことをしているのですね。母親は例えどこの国の母でも同じことをするものだと思いました。長くて寒い冬に暖かいセーターを一枚着せてやりたいのはどこの母も同じ。今年78歳になるスイス人の神父さんが子供の頃からお母さんが毎年一枚新しいセーターを編んでくれたそうです。彼が神学校に入ったとき、最後のセーターが届いたそうです。息子はもう神様のもので、自分の手の届かない所に行ってしまったという事だったのでしょう、とその神父さんは言っていました。スイスを離れて遠く日本に来てどんなにか心配だったろうと思います。私も同じ思いを体験した事がありますが、生きているのに手の届かない所に一人行ってしまって、もう何もしてあげられない、一枚のセーターもスカートさえも買ってあげられないと思ったときの切なさは、味わってみなければ分からないものでした。子供を聖職者としてささげるのは子ども自身もさることながら、親の犠牲は計り知れません。それでも、神様がお前の子をくれるかと聴けば、親はハイと答えます。これはどの宗教でも同じ事でしょう。私たちの友人に禅宗のお坊様がいますが、彼もまた同じ道を歩いたようでした。人は出家してより大きな器になり、より大きな働きをするだろうと思うから小さな親の世界から飛び立たせようと覚悟するのです。私のものではないけれど、人々のものになる。
 身を捧げた人の潔さの陰に、おおきな心を持ったお母さんがながした涙の海があると思います。毛糸を触りながら遠いスイスでなくなられた一人のお母さんを思いました。