ロシア民謡に

ちぐら

 一週間の歌というのがあります。子供の頃よく歌いました。月曜から一週間一つずつ仕事をしてゆく歌です。子供の頃はなんて暢気な生活だろうと思っていました。今改めて歌詞を見れば其処には生活への限りない喜びと願いが込められていることに気が付きます。どことなく哀愁を帯びたチュラチュラチュラチュララを景気よく歌い飛ばしていたわたし達には判りえなかった民衆の生活への願いをこの年になってやっと俯瞰的に観る事が出来る様になりました。それは私自身が自分の生活を持ったからでしょう。同じロシア民謡に仕事の歌というのがあります。「イギリス人は〜」から始まり最後に「ロシア人は歌を歌い自らを慰める」と歌い収めます。この歌がとても好きでした。この歌の中にある何も持たない民衆のせつなさを感じたという事もさることながら、何も持たなくても生きるための支えを自分たちの中から湧き上がらせる民衆の力を感じたからだろうと思います。卒業を目前に就職試験を受け続けていた学生時代、夜の電車の窓の向こうに流れてゆく会社の窓の明りを眺めながら「一つでいいから私を欲しいといってくれる所はないのだろうか」とやるせない気持ちでこの歌を口の中で転がしていました。いつの間にか自分も窓の中に生きる場所を見つけたのですが、あの心細さと焦燥感は今でもはっきり思い出すことが出来ます。
 アレから長い時を経て、私たちはあまりにも豊かになり、あまりにも物を持ちすぎあまりにも忙しくなりました。今、彼らが歌い上げていた生活の喜びや、たくましさや、暖かさを感じ取る事が出来るだろうかと疑問に思います。楽しみや喜びが自分のうちから沸きあがってくることは少なく、それは自分の外側から何がしかの代価を支払って買い取るものになってはいないだろうか。毎日の生活の中に素朴な喜びを語る人が少なくなってきてると感じるのは私だけだろうか。