空がやけに青い

 光がまぶしい。空が高い。スナフキンは友人の結婚式があるので北海道に行った。秋の北海道は空気がキンキンしている。何もかもが懸命な感じがする。もうすぐ長い冬が来るからその前にあらん限りの力で輝いているように見える。人もまた冬支度に忙しい。10月の半ば早いところでは雪虫が飛ぶ。もうすぐ初雪が里に下りてくる。親分と、北海道で暮らそうかと話した事があった。物価が高いのと冬の暮らしの厳しさを思うと二の足を踏んだ。何年か暮らすならいいかもしれないが、北海道はそんな甘い気持ちで過ごせる場所ではない。スコットランドよりはましかもねと友人は言う。ヒースの荒野は絵としてはいいが老いてからの住処としては厳しすぎる。もっとのんびりと暮らせる場所がいい。そうなると山里で、生活と医療が確保できて物価も安くて、静かに暮らせるある程度の文化基盤のあるところなんて東北か、信州か、いずれにしても雪のある場所になる。
 其処でまたターシャを思う。彼女があの場所に住み始めたのは57歳のとき。一番初めに納屋を創り其処に住み込んで生活の場所を広げていった。彼女が有能な農婦の技術と知識を持ち、体力と気力を兼ね備えていたから出来た事。もちろん息子の全面的なバックアップも有った。彼女の生き方には『引っ込む』という発想がまるで無い。何時も次に踏み出す足が用意されている。あの潔さは周到な準備と実践の積み重ねに裏打ちされた科学的なものだ。成り行きという言葉は彼女の生き方には無い。まして彼女にあこがれて同じような暮らし方をしたいなんてとんでもない話だ。私が「この人の生き方は凄い」と思ったのは藍染の話を読んでから。藍で染めるとき彼女は媒染に家族全員の尿をたるにためて使う。藍そのものも匂いがある。それを尿で媒染するのは合理的ではあるがさぞやすさまじい匂いがするだろう。かつて私も草木染をやっていたからわかるが、半端なことではない。美しいインディゴブルーは生半可な事では発色はしない。一つ一つ彼女の人生のエピソードを辿っていって最後はなんとタフな女性だろうとノックアウトパンチで感嘆した。
 あの可愛らしい画風からは想像も出来ない強靭な精神の持ち主である。彼女の夫は子供の父親ではあったが夫として父親としての義務は一切果たさなかった。4人の子供を絵筆で育て上げざるを得なかった。彼女はこのことに関して泣き言を書いていない。ただ、絵が描けて子供を育てられた事は幸せでしたと、それだけである。無駄な涙は流さない。
 何時か彼女の人生のフィナーレが来るだろうがあの人は天国の門までしっかりと迷わずたどり着き、手を差し出してペトロから鍵を受け取って自分で扉を開くのではなかろうか。現実の重さに屈せず、練り上げられ磨き上げられた人間の品性を感じる。彼女がふっとつぶやく「もうこれもゆるされるわよね」という言葉が素敵だ。偉そうなところが一つもない。
 たまにTVを見ると物申す人たちが余りに偉そうで傲慢で空恐ろしくなる。何時から私たちはこんなに自我が肥大してしまったのだろう。「私個人」の知り得た事、体験した事なんて些細なものなのに。まるで自分だけがオーソリティのような振る舞いにあっけにとられる。そしてまた自分自身を振り返る。肥大した自我が洋服を着て歩く姿だけはごめんこうむりたい。ましてや裸の王様にはなりたくない。