今日は大将の誕生日

光あれ

彼が生まれたのは夕方だった。私は前日まで片手にバケツをぶら下げて、土手によじ登って初茸を採っていた。きのこ狩りにはまっていて、その頃造成直後の団地の土手にはたくさんのきのこが生えていて、バケツを片手に一回りすると、一杯の、初茸や、落葉や、釘茸や、紫シメジ、もみ茸まで採れた。網茸もあった。こんな面白いことは初めてだったのと、予定日まで半月以上あったのでなんてことなくせっせと土手をのぼったり降りたりしていた。今にして思えば、なんて快適な妊娠ライフだったのだろうか。
 産後は夫は長期研修にでて不在になった。この前後は立て続けに長期研修が入って暫くは母子家庭状態が続いていた。面白がってたまたま行ってみた住宅供給公社の抽選に当たってしまい、土地が手に入り、突然家を建てたりわけの分からない嵐のような一年だった。コレだって、親分に「今家たてて大丈夫住めるのかい」と聞いたら彼は平然と「うん。転勤しないから。昇格試験は名前だけ書いてくるから」といったのだ。受験生根性が染み付いているわれわれの世代だ。意志薄弱な彼は答えが分かっているとつい書かずには居られなかったらしい。
 其処から人生設計が狂い始めた。あたらないように一番倍率の高かったところに応募したら一発であててしまい、応募券があまったからと私たちにくれた人は落選した。
 暢気でおおらかで何にも怖いものが無いような若い夫婦だったな。まだ二人目の子供だったからゆったりとしていたし、その後さらに5人も生まれると分かっていたらこんな無計画な生き方はしなかったかもしれない。コレで我が家も平均的家族になったのかなんて思ったりした。後で家族学を学んだときこの夫婦と子供二人というのが、まやかしの作り上げられた姿だった事を知った。この形が日本人家庭の平均であったという事実は無いのだ。行政的必要からでっち上げられた姿だったという事はあまり知られていないけれど。
 兎も角大将は私たちが精神的にも経済的にもマアゆとりのある時期に生まれた。文字通り玉のような男の子だった。ところが新生児黄疸が強く出て医者は「この子はおそらく知的障害を受けただろう。自分の名前がかけて一桁の足し引きが出来たら、それで幸せと思いなさいね」と言われた。母子間のABO型血液の違いで新生児黄疸が強く出たためで、RH型の不適合ではない。深刻な障害にはならないの。母乳を断乳するか紫外線療法で対処できるのだが、彼ははっきりと私に「この子の将来を諦めなさい」といった。幸いな事に私たち夫婦はどちらも医者の言う事を本気には受け取らなかった。
 彼は彼のペースでゆったりと育ち、気持ちの優しい、いい男に成長した。今彼はとってもしゃれた面白い文章を書くし、緻密でユニークな絵を描く。兄弟のPCは彼が組上げたものだし,マシントラブルやメンテナンスは彼が一手に引き受けてくれてる。もし、あのときの医者の言葉を真に受けていたら、こんなにのびのびと自分を発揮して成長する事が出来たのだろうか。医者の言葉を全く見当はずれと判断できた事がこの子の将来を決定したような気がする。
 人は時々間違いをする。専門家が専門分野で間違いをしたときその責任は人の生涯を破壊するほど大きい事もある。ギュダ君のときもそうだった。姫様の時もそうだった。中絶を強行に勧められてそれを拒んで生まれてきた命だ。あの時相手の言葉に脅えて「もしも障害児だったら」と中絶していたら彼らとのこの豊かな人生は無かった。紙一重だったと思う。大将が一人の人間として社会人としてささやかでも社会の片隅に明りを点しつつ生きている姿を見るとき、あのときの言葉を思い返しかみ締めている。彼がヤブ医者でよかった。
 何はともあれ「お誕生日おめでとう」生まれてくれて有り難うね。これからもよろしく。そろそろ父も母も君の助けが必要になってくるかもね。もうそうなっているか。事PCに関しては。力仕事も君なしでは出来ないしな。上手くしたもんだね。人生って奴は!!