また雨脚が強くなって

 目覚めたとき、社宅のわきを流れているお堀の水のほかに微かな雨の音が聞こえる。また今日も雨だ。私は雨が嫌いではない。でも主婦にとって雨は困るのだ。かび臭くなってしまう部屋。乾かない洗濯物。どんよりとして終日電気がついている部屋。数えていくと買い物が入っていない。ここに引っ越してきていろいろな事があって、買い物にいけなくなってしまった。売り場でギュダ君の好きなものの棚に遭遇すると足が動かなくなる。固まってしまう。涙があふれてきて動けなくなる。だからスーパーにいけなくなってしまったのだ。ひところは牛乳人間だった彼が好きだった「おいしい牛乳」のパッケージを見るだけでだめだった。だから生協の宅配で全てをまかなっている。支払いが軽く十万を超えるがそれも致し方ない。生活必需品のほとんどをまかなっているから。
 彼がいない事で私の日常はかなり変わってきた。これが人が死ぬという事なのかと思った。親が死んだときの悲しさと、育ち盛りのこどもが死んだときの悲しさはまるで違う。無残な気持ちがいつまでも残る。そして何とかならなかったのかと自分を責め続けている。自分に無意識のうちに禁止している沢山の事がある。楽しむ事、感動する事。喜ぶ事。感情を動かす事。人に心を開く事。前に向かって歩みだす事。沢山の事にためらいと、彼がもうそれが出来ないのに、何でお前がそれを受けるのかという自己規制が働く。彼がそれを望まないのは百も承知なのに、自分で自分を規制でもしなければやりきれないのだ。苦しい事や困難や、不愉快な事にじっと耐えているとき、「こんなに苦しんでいるのだから少しは償いになっているのだろうか」と思っているらしい事を、物事が過ぎてしまってから気づく。この繰り返しが私の日常の底に流れている。こうやって鬱になってゆくのだろう。ある意味では欝であるから生きてゆけるのかもしれない。ハイテンションにはなれない。ひりひりした感情は自分を痛めつけるから。
 だから今の私には少し寒くて、しとしと雨が降り続く今日のような一日がありがたいのかもしれないな・・・・人は浮いたり沈んだりを繰り返して生きてゆくものらしい。お笑いやお涙が商売になるのは、自分ひとりでありのままにその状況を作れない事情があるとき、その場に人はわが身を重ねて、感情の出口を見つけて行くからだろう。こんな事がわが身に起きて、世の中の仕組み、人と人との関わりの見えない部分を改めてみる事になる。なんと人生というものは深い知恵があるものなのだろうか。みな必要なものを無意識に作り出し、提供している。本人すらもそれが世の中の誰の必要を満たしているのか分からないのに。