今年も無事終わりました

講話会場は聖堂

 高校生と一緒に命を考える時間を過ごしてきました。
今年のお話のレジュメとしては



家族
尊厳死安楽死・臓器移植
ドナー家族となった二つの家族のこと
移植のための募金に参加した人々の気持ち
改正移植法のもたらした物
老い
自死自死遺族
生きるということ
祈り



建前ではなく、本音を語ることでしか、いのちに対する気持ちは伝えられないと思っています。そこにごまかしが入れば、建前がかたられたのなら、すべてがまやかしになってしまう。いのちはすべての人が持っているのにもかかわらず、理解することがむずかしい。フシギナモノ。
 わたしがわたしであり、あなたがあなたであることを改めて思う時間になればよいなといつも思いつつ話をする。わたしの話が小さな種となって心に小さな芽が萌える。やがてその人はその人の力でその木を育て一人の人間として自分の花をつけ実りをもたらす。わたしはそのプロセスを見守ることはできない。
 種を蒔く人は種を蒔いた。そこから先は種を蒔かれた土の責任。天は雨を降らせ、光を与える。種を蒔く人はいつ誰からその実りを受け取るのだろうか。もしかしたらその人はひとつも実りを報酬として受け取ることは無いのかもしれない。おそらくきっと受け取れないのだろう。
 聖書にも種を蒔く人は種を蒔き、収穫はほかの者がすると書いてある。それはそのまま私の歩いている道だと思う。その生き方を貫いてゆくことが、私らしいとも思う。何がしかの力や、恩恵をそこから貰おうとは思わない。まして地位や名誉などとんでもない話だと思う。
 いつまでも、過去の自分に足を置いてはいけないと思った。それはここしばらくの活動の中で、種を蒔きかつ実りを求める人たちを見たから。当然のことかもしれないが、それは私の生き方ではないなと思った。「見返りを求めず」でなければしがらみから自由にはなれないのだと思った。その点この高校生との講話会は、私に無条件の自由を与えてくれる。今日までの生きかたを振り返る時間として神が与えたもう時間でもあると思う。
 その思いがあるから、誠実に、正直に、丁寧に向き合ってこれたのだと思った。高校生と向き合って及ぶ限りの準備をして講話を組み立てることが、私自身を鍛えてくれていると感じる。それはとても得がたい恵みでこれが私の報酬なのだと感じる。
身に余るほどの。